- 1973年
資本金300万円にて南信工営株式会社を設立
- 1977年
甲府出張所を開設
- 1983年
甲府出張所を営業所に昇格
山梨県での事業規模が拡大してきたことから、営業所へ。
- 1984年
松本営業所を開設(松本市笹賀木工団地内)
- 1985年
諏訪事務所を開設
- 1987年
松本営業所を一時閉鎖
- 1988年
本社社屋新築移転
- 1990年
資本金を600万円に増資
- 1992年
甲府営業所を甲府支店に昇格・甲府支店社屋を新築
- 1993年
伊那市下水道工事指定工事店認可取得
- 1995年
竹松寿明代表取締役 社長就任
メイプルホーム設立、松本支店を再開、諏訪事務所を諏訪支店に昇格
- 1996年
資本金を2000万円に増資
- 2000年
倫理法人会入会
松本支店閉鎖(本社に統合)
- 2001年
直販事業部発足・日創研研修開始
ISO9001認定取得
工事品質の向上のため、ISO取得に取り組み、この年に取得しました。
- 2003年
環境事業立上げ
- 2005年
メイプルホーム閉鎖
アダプトシステム協定(伊那市)
伊那市うるおいの郷づくりふれあい事業(アダプトシステム)の活動に参画しました。
アダプトシステムとは
- 2007年
市川修次代表取締役 社長就任
- 2011年
金属事業部発足
- 2022年
笹川美郎代表取締役 社長就任
創業秘話
南信工営という名前
南信工営という名前の「工営」は“工事”が先で“営業”が後になっています。
創業者である“小澤一”会長が亡くなるその朝、私たちは枕元に呼ばれました。 会長は、1〜2分ほどすると「行け」というように手を振りました。後になって判るのですが、 苦しい最中、会長はその日に「現場に行け」という言葉を書き残したのでした。「行け」という手振りは「現場に行け」という意味だったのです。心底から現場を大切にしたのが創業者の“小澤一”だったのです。だから、南信工営という社名は、創業者の想いの詰まった 「創業の想い」 そのものであると云えます。
わが社は同族経営ではない
二代目社長は“竹松”元会長、私は三代目となります。私は昭和58年に入社、入社当時から社長をめざしていた訳でもなく、 平成19年に社長となるまで、 社長になるなどとは思ってもいませんでした。よく「なぜ社長になったのか」と考えるのですが、 「何でもやらせてもらった」ことが礎になったということだと思います。工事管理から営業へ、営業もルートセールスから住宅業、それから財務、資金繰り……と、わが社の仕事のほとんど全てを経験してきました。挫折も味わいました。工事部長から営業の一担当となりましたが、 受注実績は思うように上がらず、 飛び込み営業も行いましたが営業会議は「針のムシロ」。営業目標未達成の悲哀を嫌というほど味わいました。そして、極めつけは子会社の失敗。 「失敗は許されない」という意気込みで取り組んだのですが結果は失敗。 「おめおめと親会社に帰れるか、 帰れば生き恥をさらす」 と密かに想いを固めていたのですが、 「本社に来て資金繰りをやれ」 との意外な指示を受けることとなりました。すると、今度は「南信工営は訳の判らん市川が“資金繰り”をやるからつぶれるかもしれない」などと人から言われ、毎朝眠れずに家の廻りをウロウロする日が続きました。(「散歩」という人もいるのですが……)また、いつも問題ばかり抱えていました。工事担当の時は、現場が間に合わずに元請に怒られ、クレームで怒鳴られ、営業では言葉が足りずに怒られ、一言多すぎて誤解され、 財務では何がなんだか判らず恥のかきっぱなし……。 しかし、いつも 「今までにこんな大きな問題を経験した事はあったのかなあ」と思いながら一所懸命取り組んできました。こんなところが私が社長になった 「いきさつ(?)」 だと思うのですが、こう整理してみると、結局たいした事をやって社長になったのではありません。 わが社は誰でも社長になれるのであり、それがわが社の大きな特徴のひとつなのです。
顧問 市川 修次